酒瓶に映った顔を客観的に述べるなら、オッサンと呼ぶ他ない。四十路に足を突っ込もうかというオッサンだ。 目元に増えはじめた皺の一本一本を均すように撫でていると、胸がつかえるような思いが込み上げてきた。 この上、甲高いチャイムの音など聞かされては堪らないが、足は引きずるようにして狭い玄関へ向かっていた。 青年が、親しげな様子で微笑んだ。 「久しぶり、秀紀(ヒデノリ)さん」 「……どなたでしょうか?」 眠たい目をこすりこすり、ろくに顔も見ずに言うと、彼は溜め息をついて見せた。 「甥の顔も忘れたの? 諒(リョウ)だよ」 「あ…ああ、随分大きくなったな」 その名前を聞いて、ようやく意識が頭をもたげる。 諒と名乗った青年は、凛として精悍な風貌をしていた。秀紀の記憶の行き着くところ、こんなに逞しくなかったはずだが。もうそんなに月日が経ってしまったのか。 歓迎するほどではないが帰す訳にもいかず、入るように手招きする。 諒の硬く引き締まった唇が僅かに緩む。それを見て、一縷の後悔が脳裏を掠めた。 目覚めてみれば、なんて有様だろう。部屋を陣取る布団は寝乱れたまま。傍の酒瓶はラッパ呑みしていたような気がする。 卓上には空になったコンビニ弁当と、それが入っていたと思われる袋。そして、煙草の吸い殻がある。それだけは見つからないように、こっそり灰皿ごと袋に捨てた。 「なにこれ」 「聞くな」 「どうしたらこんなに散らかるの? しかもお酒臭いよ」 倒れた酒瓶を拾う秀紀に、諒は呆れたように肩をすくめた。 「喧嘩別れしたら、飲みたくもなるんだよ。お前もいずれ分かるようになるよ」 自暴自棄に吐き捨てるように言ってみるが、実はさほど落ち込んでもいなかった。 諒は納得した様子だった。 動じない。 あるいは、動揺を隠すのが上手くなったか。 どちらにしても、少しは大人になったようだ。 高校を卒業し、春からは地元に戻るのだと諒は話した。 「こっちの大学に進学することにしたから。部屋も借りてある」 「実家には戻らないのか?」 「まさか。あっちには、まだ顔も出してないよ」 無理もない。諒が寮制のある学校を志望したのは、未だに若者も真っ青なバカップルぶりを見せつける両親から離れたかったからなのだ。 親を疎ましく思うのは思春期によくある傾向かもしれないが、あれは俺でも見るに堪えない。顔を伏せながら、秀紀は思った。 秀紀の兄は、大学を卒業してすぐ結婚した。少女漫画のような超純愛を貫き通した末のゴールだった。間もなく、たくさんの笑顔に囲まれ、諒が生まれた。 幸せに満ちた、理想の家族。しかし秀紀は子供が欲しいと思ったことは一度たりともなかった。 子供は成長が早い。 秀紀がここ数年で変わったといえば、あらゆる持続力が衰えてきたことぐらいだ。 「じゃあ、何で俺のところになんか来たんだ」 言ってから、これは失言だと気付いた。いけないと思ったのに、諒を見てしまう。熱を帯びた視線に捕まる。 「話があったから来たんだ」 肩を掴まれ、布団に押し倒される。そして顎を掴まれると、目を閉じようか狼狽えている間に唇を塞がれた。 もがく腕を押さえ込まれ、無理矢理に舌が侵入してくる。円を描くように舌を舐められた後、いとも容易くからめ捕られた。 「んっ、ん…ゃ……」 時折、唇を何度も啄んでは混ざり合った唾液が溢れ、とろとろと頬を伝う。 舌先を吸われると、頭がじんとした痺れに襲われた。 「……っんあ、は…」 秀紀があえかな声を漏らす度、諒は貪婪に責め立ててくる。ねっとりと絡み合う舌が気持ち良くて、くちゅくちゅと唾液が音を立てるのが興奮を誘う。 抗えない。 相手は一回りも年下の男だというのに、甘美な口づけに夢中にさせられる。求めるほどに熱くなり、溶かされていくようだった。 口づけをほどくと、二人の視線と荒い息遣いが合わさった。 「どうだった?」 「……どう、って」 キスの痺れが尾を引いて、へどもどした返事しかできない。 秀紀の頬を汚した唾液を拭い、その指を自らの唇に運ぶ。諒の平然とした表情はおかしく、そして淫らだった。 「キスが上手くなったら、俺と付き合ってくれるって言ったよね?」 挑発的な語気に、息を呑んだ。 ―――ねえねえ、どうだった? ―――ばーか、大人はもっとすごいキスをするんだぞ。お前のはまだまだ子供だ。 ―――僕、秀紀さんの恋人になれる? ―――そうだなあ。キスが上手くなったら、付き合ってやってもいいよ。 キスの余韻を孕んだ淫靡な手つきで、首の辺りを撫でられる。体勢も相まって、獲物を喰らおうとする獣を思わせた。 「おい、待て。やめろ」 「キスじゃ駄目? ……じゃあ、セックスも証明していいよ」 聞いたこともないような艶かしい声に震えが走り、甘い疼きとなって体内を下っていくのがわかった。咄嗟に、目の前にある肩を押しやった。 「まだそんなこと言ってるのか? あれからもう何年も経ってるんだ。さすがにお前も頭が冷えただろ」 あれは子供相手に、戯れで言っただけだ。本気であるはずがない。 やましいことがあるはずないのに、あちこちに視線をさ迷わせる。 「こんなゲイのオヤジじゃなくても、女の子……いや、男の子でも、」 諒は無視して、傍に破り捨てられていた包装を拾い上げた。円い形が残り、中は少しジェルで濡れている。 もはやお菓子の包装などとはごまかせまい。すでに諒は、自らの体で以ってそれの用途を知っているだろう。 「他の男とできて、俺とできない理由がまだあるの?」 「少なくとも、今まで俺を抱いた男は、十八のガキでも、ましてや甥でもなかった」 諒が不愉快そうに眉を顰めるのを横目に、重たい腰を上げた。 「親子くらい歳が離れてるカップルで、しかも男同士なんて、世間体も考えてみろ。それに、俺はもううんざりなんだ。今更、恋に本気になりたくねえんだよ」 カップルなんて字面だけで笑えてしまう。秀紀はそう感じるくらいには、すれていた。 満たされる幸せなど願っていない。軽い気持ちで、適当な相手に抱かれる。それぐらいが丁度いい。 数えきれないほどの男に抱かれた体では、諒の純粋な気持ちを受け止めきれない。 「だったら、大人って何なの?」 縋り付くように、手をやわく握られる。上目遣いになられると、幼い頃の諒を前にしているようで気が咎めた。 「叶わない恋にけじめをつけることが大人なら、秀紀さんは大人じゃないよね」 途端、冷水をぶつけられたように背が凍りつく。 「秀紀さんが、今でも父さんを好きなのはとっくに知ってる」 (―――なぜ、そこに触れないでいてくれない。) 「俺を拒む理由は、世間体じゃないんでしょ? たしかに俺は父さんと似てるかもしれない。でも俺は、秀紀さんを置いていかないよ。秀紀さんが好きだから」 兄貴と同じ背格好、兄貴と同じ声で、俺を好きなんて言うな。 嗚咽も震えも精一杯ごまかそうとして、手に力が込もる。休みなく剣道に打ち込んできた諒の手は大きく、皮膚が硬く、温かい。そんなところまで似なくていいのに。 秀紀がひどく逡巡するのを見て、諒はまるで叱られた子供のように萎縮していた。 我慢ならずに顔を背けたとき、諒はお姫様にするそれのように秀紀の骨ばった手を掬いとる。 「ごめんなさい。でも好きだよ、秀紀さん。すごい好き」 感極まったように呟き、手の甲にキスが降る。指の間を舐めて、関節のでっぱりを吸う。ちゅっと音を立てながら、優しく啄む。 照れもなく向けられる視線の強さはまるで逡巡する理由をも見透かされているようで、ぎくりとさせられた。 「抑えきれないから、遠くへ離れて我慢してたんだ。それでも、一日だって秀紀さんを想わない日はなかった。父さんの代わりになってもいい。本気の恋が嫌なら、本気じゃなくてもいい。だから、俺を受け入れて」 懇願する諒に、既視感を覚えてならなかった。長い時間をかけて凝縮されていた希望と失望の記憶が同時に駆け巡る。 俺にはない清純さと毅然さで惹きつけて、期待させておいて、あっさり裏切られる。 幸せな結婚式。暖かな家庭。 目に映る全てが秀紀を否定した。 お前の恋は間違っているのだと。 「―――……お前に、本気になっちまいそうだから嫌なんだよ」 失恋の傷が癒えるにつれ、大人へ成長する諒に気持ちが移ろう。そんな浮気な自分が嫌だった。 また同じ間違いを繰り返すのか。 年齢差、甥と叔父。諦める理由も、自分を宥める時間も山とあった。なのに、最大の誤算は、諒が秀紀を好いていることだった。 今も、抱きしめてくる腕の強さに、体の芯からぐにゃぐにゃになって、ほだされそうになっている。拒みたいのに、醜態を晒してでもこのまま甘えてもいいんじゃないかと思えてしまう。 教えてくれ。 これも間違ってるのか? 「それって……俺のこと好きなの? 言って?」 気付けば背後に壁があって、覆いかぶさるように諒が壁に手をつくと、どこにも逃げ場がない。もうごまかせない。 さらには答えを急かすように、鼻先を頬に擦り寄せられ、腰が抜けそうになるくらい肩周りがぞくぞくした。 「お前な……、そんなの、いい歳こいて真面目な顔して言えるか」 「じゃあ、教えて。大人はどうやって伝えるのか」 調子に乗りやがって。 心中で悔しまぎれに毒づき、下側から噛み付くようにキスをした。 すぐに壁に押し付けるようにされて、深く深く唇が合わさった。脚に力が入らなくなって、ずるずると体が落ちていく。 煙草の匂いがしない。苦い味がしない。 あの人じゃない。代わりの人でもない。 でも、こんなに激しく想われ、求められるのは初めてだった。 諒が秀紀の手を取り、自らの逞しい胸に押し付けた。衣服を通して、殴りつけるような強さの心音が伝わってくる。 そして唇が触れる近さで何かを聞かれたが、流されるがままに頷いていた。 「弟さんをください」 愚直な台詞に、この場にいる誰よりも驚いたのは秀紀だった。 ところが、兄の「俺の可愛い弟をたぶらかしやがって!」という怒号も、秀紀の予想を遥かに越えていた。 二人とも竹刀を持ち出して、家中を駆け回る。こんな親子喧嘩、そうそうないだろう。 その間に挟まるのは複雑だったが、「相変わらずブラコンねえ」と朗らかに微笑む義姉にすっかり気が抜けて項垂れた。 お茶請けに出されたロールケーキは、秀紀の心情を表したように渦巻いている。それをじっと見つめていると、ふと香ってきた匂いに誘われるように顔を上げた。義姉が「あの人、昔から何本も吸っちゃうんだから」と笑う。 卓上の灰皿に積もった煙草を見つめる秀紀の口元にも、懐古の笑みが浮かんだ。あんなに重荷になっていた兄への未練が、ふっと軽くなるのを感じた。 秀紀の恋人となった諒の甘さは尋常ではなかった。 極限まで恋人を甘やかすことが好きらしく、隙さえあればキスするわ、抱きしめるわ、歯の浮くような台詞を言うわ、押し倒すわ、キスするわ。いっそ清々しいほど、秀紀への愛情を隠さないのだ。 でもそれは一度素直に受け入れてみれば、不思議と嫌じゃなくて、むしろバターのように溶けてなくなってしまうんじゃないかと何度思ったかわからない。 ―――キスも上手くなったから、いいんだよね? それはいつぞや興奮の火種になった言葉で、それから秀紀が少しでも拒んだとき、笑顔をともなって脅しのように使われるようになった。 愛されすぎて怖い。そう思いながらも、あの笑顔を手放せなくなっているのは秀紀の方だ。 竹刀のぶつかる音と一緒に、「本気で好きなんだ」と叫ぶ声が聞こえた。些か純情すぎる彼の言葉が、じわりじわりと染み込んでくる。 喧嘩がやめば、諒はきっと秀紀を抱きしめる。 それを待ちながら、甘い生クリームを挟んだロールケーキにフォークを入れた。 end. *master*純哉 [back] |