キスなんてただの束縛


おれの家庭はいわゆる機能不全家族というやつで、ちょっと歪んでいた。父親は何年も前からずっと浮気をしているし、それを知っていてなにも言わない母親はその鬱憤を全ておれにぶつけてくる。時に殴り、時に罵り、そして時におれを愛した。その愛というのもやっぱり歪んでいて、おれは息子としてかつ旦那の代わりとして、母親に縛られ続けた。
 束縛されるのが嫌だった。自由でいたかった。けれど母親はおれを離してくれない。きっと他の子供はもっと優しくあたたかな愛を親から受け取っているのに、おれには冷たい束縛だけ。それを愛なのだと一生懸命に思い込ませて、おれは耐えた。
 その日はひどく頭痛がした。昨晩母親に突き飛ばされたときに頭を打ったからだ。
「保健室に行ってきます」
 それだけ言って席を立つ。おれが保健室に行くのはよくあることなので、もう誰もなにも言わない。教師もこちらに視線を向けようともしなかった。おれ自身そうであることを楽だと思っているからいいのだが、その異常とも言える現実になんだか笑いが込みあげてくる。おれは笑いを噛み殺しながら、保健室とは反対方向に歩いて行った。
 保健室は嫌いだ。気持ちの悪い笑みを浮かべて、さも相手のことを理解していますといったふうに話し、相槌を打ち、大丈夫よと無責任なことを言う。頭痛が収まるまで時間を潰そうと、おれは裏庭へ向かった。
 裏庭には自転車置き場と教師用の喫煙所があるが、たしかこの時間はいつも誰もいなかったはずだから邪魔はされないはずだ。そう思っていたのに、実際裏庭につくと、そこには先客がいた。
 ――志水だった。
 志水の存在はずっと前から知っていた。運動能力に長けているが勉強のほうはイマイチ。だが容姿がとても整っていてフレンドリーな性格は人好きするタイプだ。高校入学してすぐに人気が出て、毎週呼び出されては告白を受けているらしい。
 それだけならまだしも、彼がこうも話題に上がる最大の理由は、その軽さだ。告白してきた女子ほぼ全員に手を出し、セックスフレンドの数は両の手を使っても足りないらしい。おれには理解できない世界だが、そういう人もいるのだろう。言い寄る女子たちもそれをわかった上で彼に群がっているのだろうし、不純だ不健康だと外野のおれがどうこういうべきことではないのだろうと思う。
 志水は緩く着崩した制服を身に纏い、喫煙所の椅子に座っていた。さすがに校内での喫煙は駄目だろうと思ってよく見ると、どうやら煙草を吸っているというわけではなさそうだ。襟足長めの髪が風でふわりと揺れる。
 思わず突っ立ってぼうっと見つめていると、向こうもこちらに気付いたようで、横目でこちらを見ると眉根を寄せた。
「あんた、誰」
 なるほどたしかに端正な顔立ちをしている。女子が好きそうな顔の作りだなと頭の片隅でそう思った。
 志水は黙って突っ立っているおれを頭からつま先までじろじろと無遠慮に見て、そしてもう一度「あんた、誰」と言った。
「5組の渡瀬」
「ふーん」
 それだけ言うと志水はまたおれから視線を外してどこか遠くを見つめた。
「……志水は、なにしてるの、ここで」
 気が付くと、そう話しかけていた。言ってしまってから、迷惑だったかなと思ったけれど、もしも迷惑だと言われたら謝ればいいだけのことだ。普段他人と関わることを好まない自分らしくないなと、なんだかおれは少しだけ吐き気がした。
「遅刻、してきたから。授業終わるまでここで時間潰してる」
 意外にも志水は律儀に返事を返してきた。おれのほうを見ることはなかったけれど。どうやらおれはここにいてもいいらしい。
「……あんた、俺のこと知ってるんだな」
「有名だから」
「女癖が悪いって? 事実だからなに言われようがどうでもいいけどよ、めんどくせえよな噂って」
 事実なのか。
「まあ今日も女と一緒にいて遅刻したわけだし」
 志水はそう言って笑った。その笑顔は意外にもなんだかあどけなかった。
「誰でも抱くって聞いた」
「断るのがめんどくさいだけだよ。向こうもそれを望んで声をかけてくるんだから、いいんだ。俺もいい性欲発散になる」
「……本命は、いないわけ」
「めんどくさいじゃんよ、縛られるのって。今のところは、作る気はねーな」
 その考えがすごく心に響いたから、だから血迷ったことを言ってしまったんだ。本当はこんなこと、望んでなかったはずなのに。いや違う、おれは志水の存在を認識したときから、ずっとこう思っていた。
「じゃあおれが抱いてって言ったら、抱いてくれる?」

 おれはずっと愛されたかった。家庭を捨てた父親、気が狂った母親、崩壊した家の中で、どこにも愛なんてなかった。餌を漁る野良犬のように、部屋の隅に転がった愛だったかもしれないもの小さなカケラを拾い集めて、それを大切に抱きしめておれは生きてきた。もしも志水が拘束することなく愛をくれるというのなら、これ以上のことはない。
 断られるだろうと思っていたのに、志水はあっさりとオーケーした。どうやら男との経験は過去にあるらしく、そんなに嫌いではないと言っていた。結局女とするのとそう大差ないのだから、いいのだろう。
 おれは何度か志水に抱かれた。志水は優しかった。おれの体を労わり、慈しんだ。傷をつけることなんて絶対にしなかった。おれは志水がおれの体に触れるたびにすすり泣くような喘ぎ声をあげ、その腕にしがみついた。こんなふうに他人に甘えることなんて、もうずっとできなかったことだから。
「渡瀬、お前なんで俺に抱かれてんの」
 あるとき志水は情事後のベッドの中でそうおれに訊ねた。
「さあ、なんでかな。志水こそ、おれのこと抱くの、嫌にならない?」
「別に」
 そう言うと志水はベッド脇の棚に置かれていた煙草の箱を掴み、その中の一本に火を点けて咥えた。
 喫煙所で初めて顔を合わせたときに吸っていなかったから喫煙はしないものだと思っていたのに、学校以外では割と吸うようで、志水はいつも煙草の箱を持ち歩いていた。未成年の喫煙は法律違反だし健康に悪いよ、と言うと、こんな爛れた生活してる俺に今更常識なんていらねぇし長生きするつもりはないから別に構わない、なんて返事が返ってきて、返す言葉を失った。
 志水の前では言葉不自由になることなく会話が成立したし、素直に甘えることができた。それはおれと志水の関係が割り切った嘘の繋がりだとわかっていたからだ。おれは志水を縛らないし、志水もおれを縛らない。そう信じていた。信じていた、はずだった。

 母親に恋人ができたらしい。家に帰ると、見知らぬ靴が玄関にあった。そっとドアを閉めリビングへ向かうと、知らない男の声と母親の声が聞こえた。途端に起こる吐き気。口の中がすっぱくなるのを感じて、おれは急いで家を出た。
 母親におれは必要なくなったのだ。夫のいない寂しさや、苛立ちや、夫への歪んだ愛情も全てあの声の主が受け止めてくれるのだ、きっと。捌け口だったおれはお役御免、もう傷つけられることも、縛りつけられることもない。むしろおれの存在はきっと邪魔になるのだろう。
 解放されたくて仕方がなかったはずなのに、この空虚感は一体なんなんだろう。
 愛が欲しくて、繋がれていたくて、痛みが欲しくて、優しさに飢えていた。母親から受けていた様々な形での暴力は全て、おれへの愛ではなくて自分を捨てた夫への愛。それを自分への愛なのだと言い聞かせてきたおれは、どんなに否定したところで寂しかったのだ。寂しくてたまらなかった。もしも志水がそんなふうにおれのことを繋いでくれたらいいのに。

 志水の噂のひとつに、セックスフレンドにキスをしないというものがある。噂の中には事実ではないものも多いが、それが本当であることをおれは知っている。
 以前、どうしてキスをしないのかと訊いたことがある。すると志水は紫煙を唇から吐き出しながらこう言った。
「キスは相手を縛りつける行為だから」
 なるほど、セックスは性欲発散として割り切れるけれど、そうでないキスは別のものなのか。
 そして今日も志水は一度もおれの唇に触れてこなかった。
 おれは、志水の誰にも縛られたくないという考え方に賛同して、この関係を望んだのだ。だから縛る行為なんて望むわけがない。それなのにどうして今はこんなにも、それが欲しい?
 志水に縛られたい。志水をおれだけのものにしたい。満たされないからっぽの心が、志水の存在を求めて止まない。
 なあ、おれが今ここでお前にキスしたら、お前はおれを捨てるのかな。
 口の中にニコチンの苦みが広がったその行為に、きっと愛なんて存在しない。きっとただの束縛の証でしかない。




end.

*master*くろねこ
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